いかにして読むか?
あなたの一冊
読書と社会科学
この本を紹介してくれたのは
松山大学 大学院経済学研究科博士課程
2017年卒
藤井孝哉 さん
職業:大学院生(博士課程)兼県立高等学校講師

本に出合った経緯

大学2回生の春,信州から着任したばかりのK先生の講義。私は,ひどく難解でいて,しかし深い洞察と示唆に富んだ講義に圧倒された。また私の勝手な学者像とは異なり,K先生は非常にユーモラスな人柄であったので,そこにもまた魅かれたのであった。
前年まで張り合いがない日々を過ごし,鬱々とした気持ちで通学していたものの,K先生の講義で「ああ,ようやく”大学”に来たんだなあ」と実感したものである。後にも先にも恩師と呼べる人はK先生しかおらず,大学生活での私の唯一の思い出である。
後期にはK先生のゼミナールに入り,そこではまず川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書,1996年)の輪読をしたのを覚えている。その次の課題本として提示されたのが『読書と社会科学』であるが,時間の都合上ゼミでは扱われなかった。折角買ったのに読まないのは勿体ない。義務から解放された勉強ほど楽しいものはないという信念から早速読んでみるも,これがまたさっぱり分からない。やや古風な語り口調であり,書いてあるネタも私が生まれる幾分前の古いものだったので,なかなか読み進めることができない。本を開いては閉じることを繰り返し,2か月かけてようやく第1章を読んだのであった。

ところでその第1章というのが,「本をいかにして読むか?」という根本的な問いとその答えが書かれている。この読書体験は,別に衝撃的なものではないが,私の学生生活と現在の研究に大きな影響を与えてくれている。以下,第1章を前提として話を進めていこう。

その本から学んだこと、考え方の変化

社会科学を学ぶ私たちにとって先ず必要なのは,社会の様々な現象を自らの目で見て考えるための「概念装置」の獲得,そしてそのための深い学びと読みである。自然科学は自然現象を自然法則として明らかにするだろうが,社会科学では社会現象を単純な社会法則として示すことは難しい。なぜなら社会を構成する人間の行動は必ずしも合理的ではなく,それによって成立する社会もまた不安定・不確実なものであるからだ。無論,表象的な社会現象をそのまま認識することは可能であろう。しかしそれでは現象の本質を見落としてしまうのだから,本質をいかにとらえるか?ということが,社会科学に求められるのである。ただし,自身の眼だけでは本質を見抜くことができない。そこで必要なのは学問的見地,ここでは私たちの学ぶ社会科学という「概念装置」(ここでは分かりやすくスコープとでもしておこう)をインストールし,それを日々アップデートすることである。
では,どのようにして基本的な「概念装置」を獲得するのか?というと,それは読書である。著者は,読書の方法として,新聞や標識のような一読明快な「情報としての読み」と,一読不明快な「古典としての読み」の二つがあると示す。社会科学のための読書には,味わい深くも難解な「古典としての読み」が重要である。そこで,本(古典)と格闘するさい,自分の読みと著者に対する信の念が必要になってくる。要は,先ず虚心坦懐に読めということだ。そうすることで,自ずと疑問や自身の意見が湧いてくるのであって,そこから止揚して得た「宝」こそが自身の「概念装置」となるのである。
このような読書を孤独におこなうのは苦行かもしれないが,筆者は複数人やグループでの読書会の運営ということを下敷きにして読書論を展開していることから,そのような集いのなかで読むということも一つの手段である。私も大学院の仲間や学部の後輩とともに読書会を運営し,『読書と社会科学』を輪読しているのだが,「古典としての読み」の難しさを共有することで,多少は苦しみを緩和できている。また読書会での対話や議論は,孤独な読書や学習とはまた違った,学びを得る場となっていると思う。

特に印象に残っているシーンは?

大変興味深いのは,筆者の「書け,而して書くな」(54頁)という,一見矛盾した呼びかけである。読書に際して,いわゆる読書ノートなどのノートテイクは一般的に紹介されるものであるが,自身が読んで学び得たことを自身の言葉として書き留めるということは,結構難しい。それは,我々素人が本を読んだとき(といってもヴェーバーを読むという例ではあるが)「…ところどころの文言が,読み手である私の想像力を喚起し,私のなかにあった経験をゆりおこして,不意に,私の眼にある「モノ」を浮かばせてくれる」(58頁)のだが,そこに浮かんだ「モノ」とは「漠としながら明確な手ごたえのあるもの」(同)だからである。だから書き留めることは難しい。
一方で,我々は義務教育課程以来,期待に応えるための感想文・小論文を書いて(正確には書かされて)きた。そのため,それなりに感想文を書くことはできるかもしれない。だがそれはあくまで評価されるために書くのであって,そこで記した意見とは平々凡々な,あるいは最大公約数的な読みでしかない。本を「古典として」読めば,漠然として難しいという感覚が当然あって,それをそのまま受け取り,苦労しながら言葉を紡ぐことで,個性的な読みに到達することができるのである。だからこそ労苦を払って書かなければならないのであって,みだりに感想文ライクな文を書くな,ということである。
なるほど,インターネットを使えば安易に誰でも情報発信者になれる現代社会を俯瞰すれば,確かに短絡的で幼稚なフェイクニュースや陰謀論が渦巻き,科学的・論理的な情報よりも感情が上回ってしまう「ポスト・トゥルース」と呼ばれるような今日である。そんな社会に生きる我々にとって,1985年の「古典」が我々に突き刺さる。改めて読書に苦闘し,深く考え,労苦を払って書くという意義を再評価し,実践していくことが重要である。

どんな人におススメしたいか

社会科学を学ぶすべての学部生にこの本を推薦する。少なくとも,大多数の学生が好む安易な「わかりやすい」本とは対極に位置する。デジタル社会の全面開花によっていつ,いかなる場所でも情報が得られる今日,こうした「古典」は好まれなくなってきている。旧い学問の戯言だと冷笑する「反知性主義」者などは論ずるにも値しないが,確実に社会が「むずかしい」ものを避け,「わかりやすい」ものを求めているのは事実だ。しかしそれは,より複雑化する社会の本質を隠蔽することになる。そこで敢えて問おう。社会を見るための「概念装置」を獲得し,物事の本質を見抜ける力はあるか? 無論,「概念装置」の獲得も,本質を見抜く力も,一朝一夕には身につかない。だからこそ深い学びと読みをしなければならないのである。『読書と社会科学』はまさにその契機たりうるのである。

読書のスタンスについて

かく言う私自身,『読書と社会科学』を通読してから,古典としての読みと概念装置を会得したかと問われると,その答えは怪しくなる。何しろ怠惰な学生であったから,毎日腰を据えて本を読むようなことは卒業までできなかった。ただし,ゼミでの輪読と議論は大変刺激的であったため,その準備のための読書だけは怠らなかった。輪読本だけでなく関連書籍も読み,インターネットで情報を収集し,レジュメを作成するために徹夜をしたこともあるが,不思議と苦にはならなかった。間違いなく『読書と社会科学』の通読以前と以後とでは,読書とゼミ活動へのスタンスは大きく変わったのである。この経験は,卒業論文,そして現在の研究に際する地道な文献収集・講読にもつながっていることは間違いない。K先生と『読書と社会科学』との出会いがなければ,平々凡々なワンオブゼムで終始していたかもしれない。

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